アーナン日報

暇な大学生達でブログやります。

大人になろうとする若者たち

 一か月以上ぶりの投稿、タウズです。

 矢のように時は流れ、気が付けばもう年が終わろうとしてますね。とはいえ、一年を振り返る気にはまだなれず、とりあえず今日はまた思ったことを書くだけにします。振り返りは後日。(振り返ることなく年を越してしまうのがオチ)

 さて、周囲には晴れて二十歳の誕生日を迎える人が増え、一段とたくましくなるかと思いきや、まあそう簡単に人は変われるわけないなと思い直すことの繰り返しではありますが、それでも徐々に、少しずつ、何かが変化し始めているのを、どこか肌で感じている今日この頃。

「この科目、オレの将来に要らんと思って、だからもうええわ。」

「研究室選びを考えると、そろそろ勉強に専念せなあかんから、部活やめるわ。」

「熱力学はもう役立たず。これからの時代、先見の明がないとね。」

 みなさん将来のことを真剣に考え始めたようで、それぞれ何かしら物事を諦め、ある分野に絞った生き方に路線変更をし始めたようです。人生も盛りを迎え、より効率よく、自分に向いている分野へ、まっしぐらに進んで行こうとしているのでしょう。

 そして、そんな時期にも関わらず、新たな趣味、サックスに手を出してしまった僕を見て、周りの友人たちは果たして何を思うのでしょうか。口には出さないだけで、「ああ、バカだな」とか、「今更始めてもろくに上達しないのに」とか、思っている方もきっといらっしゃるでしょう。ごもっとも! 僕はバカであります。そんなことはほかの誰でもなく僕自身が一番知っております。ただ、僕はこう思います。バカになれるうちは、バカになっておくべきだ、と。今はまだ、バカになってもいい時期だ、と。

 僕の周りには、将来を見越して何かを諦めた人や、やろうと思っていたことはあるけれど、今から始めるのは遅い気がするから諦める、といった人がちらほらいるのですが、どうして諦めてしまうのか、僕には理解できません。そして、理由を尋ねると、たいてい「時期的に良くないから」だとか、「将来のためにならないから」といった答えが返ってきます。あまり詮索は良くないと思ってそれで会話は終わってしまうのですが、そんなとき、僕は無性に聞きたくなります。「将来がどうなるのか、君には見えているとでもいうのか?」

 「大人になる、ということは、何かを諦めることだ。」という言葉をよく耳にしますが、僕にはそうは思えません。諦めて、夢も希望も捨ててしまった人を大人というのであれば、この世界中の大多数の人間が鬱屈した日々を送っていることになってしまうではありませんか。

「いつまでも子どもでいてはいけない。」

「早く大人にならなければ。」

 二十歳になった若者たちは、どこかで心の焦りを感じているのか、大人になろうという意識から、自分にとって必要かどうかわからないうちから物事を見限り、これは要らないものだ決めつけて諦めてしまう人が多いようですが、どうしてそれが自分に必要ないと断言できるのでしょうか。諦めることが大人への道だと思い込み、仕方がなかったと、その行為を「大人」という言葉で正当化しているようにすら聞こえます。

良く考えてみると、大人になるために諦める、ということは、その、諦めるという判断をしたのはまだ大人になっていない、子どもの判断ということになります。つまり、その諦めは、大人になろうと焦った、判断力に乏しい子どもが判断した諦めであり、極めて危険な行為といえます。物事と物事の関連性が見えていないうちに、これは自分に必要、これは不必要、と決めつけるのは、あまりに愚かだと思います。

 僕は、「諦める」という行為を完全に悪とみなしているわけではありません。時には諦めることが大切な場面がきっとあるでしょう。けれど、子どもから大人になるため、などという理由で、物事を諦めることは、間違っていると思うのです。そして、若いうちは、簡単に諦めてしまうようなことは、絶対にしてはいけないと思います。

 若者ほど、若さという最強の武器を持て余しているように感じます。若さとは、エネルギーであり、輝きであり、強さであります。若いうちは、たいていのことは何をしても許される。失敗しても、立ち上がれる。身体も健康であり、病気から回復する速さも年寄りとは比較になりません。この世界でたくましく生き、そして、ありとあらゆることを吸収するのに最も適した時期であることは言うまでもありません。その若さを、無駄にしていい理由はどこにもありません。そして、自分はこんなものだと決めつけて、自ら若さを手放すような行為は、人生を捨てるようなものです。そして、ある程度歳月が経って、本当に手遅れになってから、後悔する。それだけならまだよいのですが、輝いている若者を見かけたり、周囲の同年代が自分より若く見えたりするたびに、羨んだり、妬んだり。さらには本気で努力している人に出会ったら、「頑張ってもどうせ特別な人間には勝てない」とか、「引き際を知ったほうが楽になれる」などと囁いて、邪魔をする。自分たちの側に引き入れようとする。自分から若さを捨てておきながら、他人が若く見えたら他人にも若さを捨てさせるように促す。なんと卑劣な大人たち! そんな人間を大人と呼ぶのであれば、僕は一生大人になんてなりたくありません。

 何も一生子どものままでいていいと言っているわけではありません。ただ、自ら、ここまでは子どもで、ここからは大人だ、という明確な線引きをする必要はないと思うのです。そして、大人にならなければという焦りから大人になろうとしても、ろくな大人にはなれないと思うのです。

 ですから皆さん、そしてすべての若者たちへ。絶対に、自ら若さを手放すことだけはしないようにしてください。そして、無理に大人になろうとして、いろいろと諦めてしまうようなことはしないでください。「大人」という言葉は、諦めを正当化するためにあるのではありません。仕方がなかったと片づけてしまわないで、たとえ人の目に醜く映ろうとも、もう少し足掻いてみてはいかがでしょう。僕は、サックスを始めてみて、こんなに楽しいことがまだあるのだと、気づかされました。新しいことには、こんなにも喜びと感動がある。世界は、知らないことだらけ。そうした意味では、僕らはまだまだ子どもなのです。「世の中どうせこんなもの」だと高を括ることが賢いことだなどと思い込まずに、知らないことを純粋に知ろうとするその姿勢を大切にしてほしいと思います。

 複雑に膨らんだこの世界、どの点と点が結びついているのか、絡み合ってわかりにくくなっていて、一見すると遠く離れた点と点は、無関係のように見えることがあります。でも、だからといって、よく知りもしないうちから、これとこれは関係ないと、バッサリと切り離してしまわないでほしい。座標平面上において、n個の点は、nがたとえどれだけ大きな数であろうとも、(n-1)次関数のグラフですべての点を繋げるように、意外な関係で点と点はつながっているものなのです。

 大人と子どもの狭間で迷い悩むすべての若者たちへ、とりあえず一息ついて、周囲を見回してみてください。ひょんなことから何かが始まる可能性は、そこら中に無数に転がっています。